御浜町文化協会(熊埜御堂茂会長)は16日夜、町役場くろしおホールで研修講座を開いた。熊野市大泊町の郷土史研究家・向井弘晏さんが「泊観音と林松寺の玉芝和尚」をテーマに講演。約30人が受講し、泊観音と市木地区が強い縁で結ばれていることを学んだ。向井さんは泊観音の千手観音像に室町時代に作られたと見られる頭部が隠されていた新発見も語り、受講者を驚かせた。
泊観音は正式名称を比音山清水寺(せいすいじ)。泊観音縁起には809年に坂上田村麻呂が建立したとある。太平洋戦争前後まで、太地や新宮始め近郊近在から多くの人が大漁祈願や武運長久を祈って参詣し大変賑わった。しかし時代の流れで参拝者が減り、昭和39年(1964年)に廃寺となった。
この時、秘仏と千手観音像の扱いを協議。秘仏は廃寺の際に不明となっていたが、平成30年に持ち主が判明。持ち主との話し合いで平成31年1月18日の初観音の日、55年ぶりの1回限りの秘仏御開帳が実現した。
一方、千手観音像は近くの清泰寺に客物として移された。昨年、和歌山県立博物館で展示するため学芸員が訪れ、千手観音像の舟形光背を外したところ、背中の部分に古い像の頭部が収められていることが分かった。千手観音像には文政13年(1831年)に作られたと刻まれているが、同博物館の調査によると、この古い頭部は室町時代の貴重なものと判明。展示会でも一番の目玉になったという。
向井さんは20年以上続けてきた泊観音の道普請活動も振り返り「道は5年間、人が入らないと無くなってしまう」と話した。
また、向井さんは泊観音の恩人である下市木村の林松寺20世・玉芝貫明宗師(一応貫明大和尚)についても解説した。明治時代、泊観音は荒れ果てていた。明治27年、これを見かねた下市木村の林松寺20世・玉芝貫明宗師(一応貫明大和尚)が「仏の教えを伝えるものとして何とかしたい」と、朽ち果てたお堂を再建。毎月2度ほど市木から歩いて泊観音へ通い、お堂で講話し信者を増やした。
玉芝宗師は賀田の東禅寺の住職も兼務しており、市木と賀田に縁が深かった。向井さんは東禅寺の『氏寺旧記』にある、延宝4年(1676年)の飢饉が続いた年に、泊村の千手観音像を東禅寺に1両で売り渡したが、時を経て玉芝宗師が無償で泊観音へ返却したというエピソードも紹介。玉芝宗師の遺徳を讃えた。
向井さんを講師に迎えた今年度研修会は計2回を予定しており、次回は23日(木)午後7時から、御浜町役場くろしおホールで開催。テーマは「熊野古道を辿る巡礼と善根宿」。申込不要で誰でも受講できる。